Debian の歴史の概略 Debian Documentation Team debian-doc@lists.debian.org 2.0 (last revised 3 January 2002) この文書は Debian プロジェクトの歴史と目標を述べます。 This document may be freely redistributed or modified in any form provided your changes are clearly documented.

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Changes by Oohara Yuuma Initial version (version 2.0, cvs revision 1.14). 序文 -- Debian プロジェクトとは何か?

は フリーソフトウェアだけからなるオペレーティングシステムディストリビューションを 作るために努力する世界規模のボランティアグループです。このプロジェクトの 今までの主要な生産物は Debian GNU/Linux ソフトウェアディストリビューション です。これは Linux オペレーティングシステムカーネルと、何千ものパッケージ化 ずみのアプリケーションを含みます。さまざまなプロセッサタイプが程度こそ ちがうもののサポートされています。この中には Intel i386 以降、Alpha、ARM、 Motorola 68k、MIPS、PowerPC、Sparc、および UltraSparc、HP PA-RISC、IBM S/390 そして Hitachi SuperH が含まれます。

Debian は (SPI) 設立の動機となりました。これはニューヨークを本拠地とする非営利団体です。 SPI は Debian およびその他の同様の組織がオープンハードウェアおよび ソフトウェアを開発するのを助けるために設立されました。とりわけ SPI は Debian プロジェクトが米国で税控除に使える寄付を受けいれるしくみを提供します。

フリーソフトウェアについてくわしくは、 とそれに関連する Debian Free Software Guidelines または のページをごらんください。 初期

Debian プロジェクトは公式には Ian Murdock さんによって 1993 年 8 月 16 日に 設立されました。そのころには、Linux の「ディストリビューション」という概念 自体が新しいものでした。Ian さんは Debian を開かれた、Linux と GNU の精神に そったディストリビューションにしようとしました (くわしくはこの文書の 付録として提供されている彼の宣言をごらんください)。Debian の誕生は FSF の GNU プロジェクトによって 1 年間 (1994 年 11 月から 1995 年 11 月まで) 支援されました。

Debian は注意深くそして良心的にまとめられるように、そして同様の配慮で 維持されサポートされるように意図されました。Debian はフリーソフトウェア ハッカーの小さくて緊密なグループとしてはじまり、しだいに開発者および ユーザの大きくてよく組織されたコミュニティに成長しました。

Debian はすべての開発者およびユーザに自分の仕事を役立てる方法が開かれている 唯一のディストリビューションです。Debian は Linux の重要な配布団体としては 唯一営利団体ではありません。Debian はプロジェクトを組織するための憲章、 社会契約そしてポリシー文書を持つ唯一の大プロジェクトです。Debian は アップグレード時のシステムの整合性を保証するためのパッケージ間の詳細な 依存情報を使った「小さくパッケージ化された」唯一のディストリビューションでも あります。

高い基準と品質を達成し維持するために、Debian はソフトウェアをパッケージ化し 配布するための豊富なポリシーと手続きを採用しました。これらは Debian の主要な 要素すべてを公開で目に見える形で実装するツール、自動化そして文書によって 裏打ちされています。 Debian を発音する

Debian の公式の発音は「デビアン (deb ee n)」です。この名前は Debian の 創設者である Ian Murdock さんとその妻である Debra さんに由来します。 リーダ職

Debian には 1993 年の創設以来何人かのリーダがいます。

Ian Murdock さんが Debian を 1993 年 8 月に設立して 1996 年 3 月まで リーダをつとめました。

Bruce Perens さんが 1996 年 4 月から 1997 年 12 月まで Debian の リーダをつとめました。

Ian Jackson さんが 1998 年 1 月から 1998 年 12 月まで Debian の リーダをつとめました。

Wichert Akkerman さんが 1999 年 1 月から 2001 年 3 月まで Debian の リーダをつとめました。

Ben Collins さんが 2001 年 4 月から現在まで Debian の リーダをつとめています。 Debian リリース

Debian 0.01 から 0.90 まで (1993 年 8 月 - 12 月)

Debian 0.91 (1994 年 1 月): このリリースはパッケージをインストールおよび 削除できる単純なパッケージシステムでした。Debian プロジェクトはこの時点で 数十人に成長しました。

Debian 0.93R5 (1995 年 3 月): それぞれのパッケージに対する責任がこの時点で 開発者に明確に割りあてられました。そしてパッケージマネージャ (dpkg) が base システムをインストールしたあとでパッケージを インストールするのに使われました。

Debian 0.93R6 (1995 年 11 月): dselect が出現しました。 これは a.out バイナリ形式を使う最後の Debian リリースでした。約 60 名の 開発者がいました。 最初の master.debian.org サーバが Bdale Garbee さんによって構築され、 0.93R6 リリースと並行して HP によって運営されました。Debian の開発者が 各リリースを構築する特定のマスターサーバを設置することは Debian のミラー ネットワークの設立に直結しました。また間接的に今日プロジェクトを管理するのに 使われるポリシーや手続きの多くを開発することにもつながりました。

Debian 1.1 Buzz (1996 年 6 月): これはコードネームがついた最初の Debian リリースです。これは今までのほかのすべてと同様に、映画 Toy Story 中のキャラクターに由来します... この場合、Buzz Lightyear です。このころには、Bruce Perens さんがプロジェクトのリーダを Ian Murdock さんから引きつぎ、Bruce さんはこの映画を作った Pixar 社に つとめていました。このリリースは完全に ELF 形式で、Linux カーネル 2.0 を 使っており、474 個のパッケージを含んでいました。

Debian 1.2 Rex (1996 年 12 月): 映画のプラスチックの恐竜から 名付けられました。このリリースはこのリリースは 120 人の開発者によって 維持される 848 個のパッケージから構成されていました。

Debian 1.3 Bo (1997 年 7 月): 女羊飼いである Bo Peep から 名付けられました。このリリースは 200 人の開発者によって 維持される 974 個のパッケージから構成されていました。

Debian 2.0 Hamm (1998 年 7 月): 映画の豚の貯金箱から名付けられました。 これは複数のアーキテクチャからなる最初の Debian リリースである、 Motorola 68000 シリーズアーキテクチャのサポートを加えました。Ian Jackson さんを プロジェクトリーダとし、このリリースは libc6 への移行を果たしました。 そして 400 人以上の開発者からなる 1500 以上のパッケージから構成されて いました。

Debian 2.1 Slink (1999 年 3 月 9 日): 映画のこそこそした犬から 名付けられました。さらに 2 種類のアーキテクチャが追加されました。 です。 Wichert Akkerman さんをプロジェクトリーダとし、このリリースは約 2250 個の パッケージから構成されていました。公式のセットでは CD 2 枚を必要としました。 主要な技術革新は新しいパッケージ管理インターフェイスである apt の導入でした。apt は広くエミュレートされ、Debian が 成長していくことから生じる問題に取り組み、オープンソースオペレーティング システム上でのパッケージの取得とインストールに新しいパラダイムを確立しました。

Debian 2.2 Potato (2000 年 8 月 15 日): 映画の「Mr Potato Head」 から名付けられました。このリリースは アーキテクチャのサポートを追加しました。Wichert さんがひきつづきプロジェクト リーダをつとめ、このリリースは 450 人以上の Debian 開発者によって維持される 2600 個以上のソースパッケージに由来する 3900 個以上のバイナリパッケージから 構成されていました。 詳細な歴史 0.x リリース

Debian は Ian Murdock さんによって 1993 年 8 月にはじめられました。 当時 Ian Murdock さんは Purdue 大学の学部学生でした。Debian は (Richard Stallman さんによってはじめられた団体で、General Public License (GPL) と関係があります) の GNU Project によって 1 年間 -- 1994 年 11 月 から 1995 年 11 月まで -- 支援されました。

Debian 0.01 から Debian 0.90 までは 1993 年 8 月から 12 月までの間に リリースされました。Ian Murdock さんはこう書いています:

「Debian 0.91 は 1994 年 1 月にリリースされました。これにはユーザが パッケージを操作できるようにする初期のパッケージシステムがありましたが、 そのパッケージシステムは他にはほどんど何もしませんでした (依存関係とか それに似たものはありませんでした)。そのころは、Debian で作業している人が 数十名いましたが、私が依然として自分でリリースをまとめていました。 0.91 はこのようにして行われた最後のリリースです。

1994 年の大部分は他の人たちがより効果的に貢献できるように Debian プロジェクトを組織するのに、そして dpkg (これについては 主に Ian Jackson さんに責任がありました) について作業するのに 費やされました。私がおぼえているかぎり 1994 年には公のリリースは ありませんでしたが、手続きを正しくするための作業中に数回の内部での リリースがありました。

Debian 0.93 Release 5 が 1995 年 3 月に実現しました。これは Debian の 最初の「現代的な」リリースでした: そのころにはさらに多くの開発者が いて (正確に何人なのかおぼえていませんが)、それぞれが自分のパッケージを 開発し、base システムをインストールしたあとでこれらのパッケージを インストールしたり維持したりするのに dpkg が使われていました。

Debian 0.93 Release 6 が 1995 年 11 月に実現しました。これは a.out 形式での 最後のリリースでした。0.93R6 では約 60 人の開発者がパッケージを開発して いました。私の記憶が正確ならば、dselect は 0.93R6 ではじめて 登場しました」

Ian Murdock さんは Debian 0.93R6 は「いつも私の大好きな Debian リリース だった」とも書いていますが、彼は個人的な偏見の可能性も認めています。なぜなら 彼は Debian 1.0 の前段階である 1996 年 3 月にプロジェクトで活動するのを やめているからです。Debian 1.0 は実際には CDROM 製作者がまちがって リリースされていないバージョンに Debian 1.0 という印をつけたあとの混乱を 避けるために Debian 1.1 としてリリースされました。このできごとは ベンダがこの種のまちがいを避けるのをプロジェクトが助ける方法としての 「公式の」CDROM イメージという概念にむすびつきました。

1995 年 8 月 (Debian 0.93 Release 5 と Debian 0.93 Release 6 の間です) に、 Hartmut Koptein さんが Motorola m68k 系列への Debian の最初の移植を開始 しました。彼は「非常に多くのパッケージは i386 中心主義 (リトリエンヂィアン、 -m486、-O6 そして libc4 専用) で、自分のマシン (Atari Medusa 68040, 32 MHz) 上に出発点となるパッケージをそろえるのに苦労しました。3 か月後 (1995 年 11 月) には、利用可能な 250 個のパッケージのうち 200 個をアップロード しましたが、すべて libc5 用でした!」と報告しました。あとになって彼は Vincent Renardias さんや Martin Schulze さんとともに PowerPC 系列への 移植版をはじめました。 このころから、Debian Project は他のアーキテクチャへのいくつかの と、新しい (Linux では ない) カーネル、すなわち GNU Hurd マイクロカーネルへの移植版を含むまでに 成長しました。

初期のプロジェクトメンバーである Bill Mitchell さんはこう回想して います: Linux カーネルは

「Debian がはじまったときは 0.99r8 と 0.99r15 の間でした。長い間、 私は 20 Mhz の 386 ベースのマシン上でカーネルを 30 分以内に構築することが できました。そして Debian のインストールを同じ時間で 10Mb のディスク スペースにインストールすることができました。

「Ian Murdock さん、私、Ian Jackson さん、苗字をおもいだせない他の Ian さん、 Dan Quinlan さん、そして名前をおもいだせない他の人たちを最初のグループとして おぼえています。Matt Welsh さんは最初のグループの一部か、かなりはやい段階で 参加しました (それ以降彼はプロジェクトから離れました)。だれかが メーリングリストを設置し、私たちはうまくやっていました。

私がおぼえているかぎり、私たちは計画をたててからはじめたわけではなく、 計画を高度に組織化された形にまとめてからはじめたわけでもありませんでした。 私がおぼえているかぎり、最初から私たちはパッケージの無秩序な集合の ためにソースを集めはじめました。時間がたつにつれ、私たちは ディストリビューションの中核をまとめるために必要なものを集めるのに集中する ようになりました: カーネルとか、シェルとか、update、getty、システムを 初期化するのに必要なその他のさまざまなプログラムやサポートファイル、 そして中核となるユーティリティのセットです」 初期の Debian パッケージシステム

プロジェクトのいちばんはじめでは、メンバーはソースのみのパッケージを 配布することを考えました。各パッケージは上流のソースコードと Debian 化された パッチファイルから構成され、ユーザはソースを解凍し、パッチをあて、自分で バイナリをコンパイルするわけです。しかし、すぐに何らかのバイナリ配布の しくみが必要だと気がつきました。Ian Murdock さんによって書かれ dpkg と呼ばれた最初のパッケージ化ツールはパッケージを Debian 特有のバイナリ形式で作りました。そして dpkg はあとで展開して パッケージ中のファイルをインストールするのに使えました。

Ian Jackson さんがすぐにパッケージ化ツールの開発を引きつぎ、ツール自体の 名前を dpkg-deb に変更し、dpkg-deb の使用を 容易にし今日の Debian システムの DependenciesConflicts を提供するための dpkg と名付けられたフロントエンドプログラムを 書きました。これらのツールによって作られたパッケージにはこのパッケージを 作るのに使われたツールのバージョンをあげるヘッダがあり、tar に よって作られたアーカイブ (制御情報によってヘッダとは分けられていました) への offset がありました。

このころにはプロジェクトメンバー間で論争がおきました -- dpkg-deb によって作られた Debian 特有のフォーマットは ar プログラムに よって作られる形式にとってかわられるべきではないかと思った人がいました。 何度かファイル形式が変更され、それに対応してパッケージ化ツールが変更された あとで、ar 形式が採用されました。この変更の主要な価値は Debian パッケージをどんな Unix に似たシステム上でも信用できない実行ファイルを 実行する必要なしに展開できるようにしたという点です。言いかえれば、すべての Unix システムにある「ar」や「tar」のような標準的なツールだけが Debian バイナリパッケージを展開し中身を調べるのに必要とされるということです。 1.x リリース

Ian Murdock さんが Debian を離れたとき、彼は Bruce Perens さんを次の プロジェクトリーダに任命しました。Bruce さんははじめハムラジオオペレータの 役に立つ Linux ソフトウェアをすべて含む「Linux for Hams」と呼ばれる Linux ディストリビューション CD を作ろうとしていたときに Debian に興味を持ちました。 彼のプロジェクトをサポートするためには Debian core システムにはもっと作業が 必要だとわかって、Bruce さんは自分のハムラジオディストリビューションを 延期して、(Ian Murdock さんとともに) 最初の Debian インストールスクリプトの セット (今日の Debian レスキューフロッピーになりました) を組織することを含む、 基本的な Linux システムと関連するインストールツールの作業を多く行うように なりました。

Ian Murdock さんはこう言っています:

「Bruce さんは私の後継者として自然な選択でした。なぜなら彼は約 1 年間 base システムを開発していて、私が Debian に提供できる時間が急速に減って いくにつれてたるんだ部分をひろいあげていったからです」

彼は Debian Free Software Guidelines と Debian Social Contract を作るための 努力をまとめること、そして The Open Hardware Project をはじめることを含む プロジェクトの重要な部分をはじめました。彼がプロジェクトリーダをつとめる間、 Debian は市場シェアおよびまじめな、技術を持つ Linux ユーザのための プラットフォームとしての評判を獲得しました。

Bruce Perens さんは を作る努力の先頭に立ちました。もともと Debian プロジェクトに 寄付を受けいれることができる法人格を提供しようというつもりでしたが、 目標は Debian プロジェクト以外のフリーソフトウェアプロジェクトを支援する ことを含むようにすぐに拡大されました。

このころ以下の Debian バージョンがリリースされました:

1.1 Buzz 1996 年 6 月リリース (474 個のパッケージ、 2.0 カーネル、完全に ELF 形式、dpkg) 1.2 Rex 1996 年 12 月リリース (848 個のパッケージ、 120 人の開発者) 1.3 Bo 1997 年 7 月リリース (974 個のパッケージ、 200 人の開発者)

1.3 には中間の「ポイント」リリースが行われました。その最後は 1.3.1R6 です。

http://www.debian.org/News/1999/19990309 Bruce Perens さんは 2.0 リリースを 準備する間にさまざまな方法でプロジェクトを率いたあと、 1998 年 1 月はじめに Debian プロジェクトリーダを Ian Jackson さんに取って かわられました。 2.x リリース

Ian Jackson さんが 1998 年はじめに Debian プロジェクトのリーダになりました。 その直後に副社長として Software in the Public Interest の取締役会に 加えられました。財務担当 (Tim Sailer)、社長 (Bruce Perens) そして秘書 (Ian Murdock) が辞任したあとで、彼は社長になり、3 人の新メンバーが 選ばれました: Martin Schulze (副社長)、Dale Scheetz (秘書) そして Nils Lohner (財務担当) です。

Debian 2.0 (Hamm) は 1998 年 7 月に Intel i386 および Motorola 68000 系アーキテクチャ向けにリリースされました。このリリースは システム C ライブラリの新バージョン (glibc2、歴史的な理由から libc6 とも 呼ばれています) への以降を果たしました。このリリースの時点では、400 人以上の Debian 開発者によって維持される 1500 個以上のパッケージがありました。

Wichert Akkerman さんが 1999 年 1 月に Debian プロジェクトリーダとして Ian Jackson さんに取ってかわりました。 は最終段階での問題がおきたとき 1 週間おくれたあとで 1999 年 3 月 9 日に リリースされました ()。

Debian 2.1 は 2 種類の新しいアーキテクチャを公式にサポートしていました: です。 Debian 2.1 に含められた X-Windows パッケージは以前のリリースから 大きく再編され、2.1 は次世代の Debian パッケージ管理インターフェイスであ apt を含んでいました。さらに、この Debian リリースは「公式 Debian CD セット」に 2 枚の CD-ROM を要求するはじめての Debian リリースでした; このディストリビューションは約 2250 個のパッケージを含んでいました。

1999 年 4 月 21 日、Corel が Debian および KDE グループによって作られた デスクトップ環境にもとづいた Linux ディストリビューションをリリースする つもりだと発表したとき、 が Debian と事実上同盟を結成しました。その春と夏の間、もうひとつの Debian ベースのディストリビューションである Storm Linux が出現し、 Debian プロジェクトは CD-ROM や公式プロジェクトウェブサイトなどの Debian 公認の 生産物で使うための公式バージョンと、Debian に言及するか由来する生産物で 使うための非公式ロゴからなる新しいロゴ () を選びました。

新しい、独特の Debian 移植版もこのころはじまりました。 への移植版向けです。 これは Linux 以外のカーネルを使うはじめての移植版です。かわりに GNU Mach マイクロカーネルの一種である を使います。

Debian 2.2 (Potato) は 2000 年 8 月 15 日に Intel i386、 Motorola 68000 シリーズ、alpha, SUN Sparc, PowerPC そして ARM アーキテクチャ向けにリリースされました。これは PowerPC と ARM への移植版を 含むはじめてのリリースです。このリリースの時点では、450 人以上の Debian 開発者によって維持される 3900 個以上のバイナリパッケージと 2600 個以上のソースパッケージがありました。 次は何?

Debian 開発者は開発版ディストリビューションでの作業を続けています。 これは次の安定版リリースになるはずで、Woody というコードネームが ついています。

この間にパッケージプールが実装されました (2000 年 12 月以降 ftp-master に よって有効にされました)。同時に新しいディストリビューションである testing が導入されました。主に、開発版にある安定していると言われる パッケージがテスト版に移されます。これはフリーズ期間を短縮し、新しいリリースを いつでも準備できるようにするはずです。このため、Woody は新しい テスト版ディストリビューションのコードネームになり、Sid (自由にする べきではないとなりの邪悪で「不安定な」子供) が開発版ディストリビューションの 永久的なコードネームになりました。 Debian Linux 宣言

訳注: この文書は、Debian の歴史を文書に残しておくために配布されていることに注 意してください。一般的な概念は、細かな点でいくつか変更されています。

イアン・マードック著、1994 年 1 月 6 日改定 Debian Linux とは何か?

Debian Linux はまったく新しい Linux 配布版です。今までに開発された他の Linux の配布版のように、限定的な個人やグループが開発しているものではなく、 Linux と GNU の精神に則り、オープンに開発されています。Debian は、最終的 に Linux の名に恥じな配布版を作り出すことを第一の目的としています。 Debian は注意深く、また良心的に配布版をまとめており、同様の配慮で保守・ サポートしていく予定です。

Debian は、市場で十分な競争力を持ちえる、商用ではない配布版を作り出す試 みでもあります。ゆくゆくは Free Software Foundation が CD-ROM で Debian を配布するようになるでしょう。また Debian Linux Association は、 印刷されたマニュアルや技術支援などエンドユーザに必要なものと一緒に、フロッ ピーディスクやテープによる配布を提供することになるでしょう。上記のすべて が原価よりもわずかに高い金額で入手できるようになり、そのわずかな原価超過 分を使って、すべてのユーザのためのフリーソフトウェアをさらに開発していく ことになるでしょう。このような配布版には、市場で Linux オペレーティング システムが成功していることが欠かせません。また、十分に先進的な位置にあり、 利益や配当の圧力を受けることなくフリーソフトウェアを広めようとしている組 織によってなされなければなりません。 なぜ Debian を作成するのか?

Linux の未来にとって配布版は不可欠です。配布版を利用すると、ユーザはうま く稼動する Linux システムを組みあげるために必要な、大変な数のツールを探 しだし、ダウンロードし、コンパイルし、インストールしシステムとしてまとめ あげる作業をせずににすむようになります。かわりに、システムを構築する重荷 は配布版作成者が背負います。配布版作成者がした作業は、何千もの他のユーザ と分かちあうことができます。大抵の Linux ユーザは、配布版を通して Linux なるものの最初の感触を得るものです。また、多くのユーザが、このオペ レーティングシステムに慣れてからも、便利さを求めて配布版を使いつづけるで しょう。つまり、配布版は本当に大変重要な役割を担っているのです。

配布版が明らかに重要であるにもかかわらず、開発者達はほとんど注意を払わず にいます。単純な理由によります。配布版の構築は易しくもないし、魅力的でも ないからです。また、配布版のバグをとり、最新の状態に保つために、作成者は 継続的に大変な努力を強いられるからです。0 からシステムを組みあげるのとは 全く別物です。つまり、システムが他人にとってインストールしやすく、多様な ハードウェア構成にもインストールして使用でき、使いでがあると人を唸らせる ソフトウェアを含み、構成要素そのものが改善されたときにアップデートできる ことを保証するということなのです。

多くの配布版がかなりよいシステムとして発表されました。しかし、時が経つに つれて、配布版の保守から次第に関心を失い、二の次になってしまいます。その よい例が、Softlanding Linux System (SLS の略称で有名) でしょう。恐らくもっ ともバグが多く、保守もほとんどなされなかった配布版です。残念ながらこの配 布版は、恐らくもっとも多くの人に使われた物でもありました。まぎれもなく、 これは多くの配布業者からいちばん注目されてしまった配布版だったのです。こ れらの業者は、このオペレーティングシステムが世に広まって行くのに便乗して いることを露呈してしまいました。

これはまったくひどい組み合せです。この手の配布業者から Linux を得る多く の人が、バグが含まれているうえに保守もされない Linux 配布版を受け取って しまうのですから。これだけでは悪行したりないかのように、こういった配布業 者には、自分達の製品の中の動かなかったり極めて動作が不安定な機能について 誤解を与えかねない宣伝をすると言う困った傾向がありました。このような状況 と、購入した人はその製品が宣伝に違わぬできだろうともちろん予想することと、 多くの人がその製品が商用のオペレーティングシステムだと信じている (Linux がフリーであることや、GNU 一般公有使用許諾に従って配布されている ことに言及しない傾向もありました)かもしれないことを考えあわせてみてくだ さい。なおその上に、これら配布業者は、より多くの雑誌で派手に広告を出して もかまわないだけの金を努力して実際に稼ぎ出しています。単にあまりよくわかっ ていないだけの者が、容認できない行動を助長してしまうという古くから見られ る事例が見てとれます。あきらかに、この状況を改善するために何か手を打つ必 要があります。 Debian はこれらの問題に終止符を打つためにどのように努力するつもりなのか?

Debian の設計過程は、オープンです。システムが最高の品質を持つことと、ユー ザの共同体の要求を反映させることを保証するためです。能力と背景に広がりが ある他人を巻きこむことで、モジュール化して Debian を開発することが可能に なりました。ある分野の専門的知識を持つ者が、その分野を含んでいる Debian の個々の構成要素を開発したり保守したりする機会が与えられるので、 その構成要素の品質は高くなります。他人を巻きこんだことで、改良のための価 値ある助言が開発を通して配布版に含まれて行くことも保証されます。そのため、 どちらかというと作成者の要求や欲求よりもユーザの要求や欲求を元に配布版は 作成されます。一人の個人や小グループでは、直接他人から情報を得なければ、 このような要求や欲求を前もって組み入れることはかなり難しいものです。

Free Software Foundation と Debian Linux Association は物理媒体でも Linux を配布する予定です。これにより Internet や FTP を使わなくてもユー ザに Debian を提供できます。また、システムのすべての利用者が印刷された手 引き書や技術支援などの製品やサービスを広く入手できるようにすることもでき ます。このやりかたなら、Debian はたくさんの個人や組織で使用されるでしょ う。収益や配当を得ることではなく、一級の製品を供給することに焦点をあてて います。そして、製品やサービスから生じた利潤は、対価を支払ってソフトウェ アを得たかどうかにかかわりなく、すべての利用者のためにソフトウェア自体を 改良するために使われるでしょう。

Free Software Foundation は Debian の将来にとって大変重要な役割を果たし ます。Free Software Foundation が Debian を配布するという単純な事実によっ ても、Linux が商用の製品ではなく、今後もけしてそうはならないこと、しかし Linux が商業的な競争にけして勝てはしないとは意味しないことを世に知らしめ ることになります。同意しない人は、GNU Emacs と GCC が成功していることを 理由付けしていただきたい。これらは商用の製品ではありませんが、商用である かどうかにかかわらず市場に甚大な影響を与えてきました。

Linux 共同体全体とその未来に迷惑をかけて自分が裕福になるという破壊的な目 標を目指すかわりに、Linux の未来に集中するときがきました。Debian を開発 し配布しても、この宣言で概略を述べた問題への回答とはならないかもしれませ ん。ですが、少なくとも、これらの問題が解決すべき問題として認められるくら いには Debian を通して注意を引きたいと望んでいます。