Debian 小史 Debian Documentation Team debian-doc@lists.debian.org 2.5 (last revised August 10th, 2005) この文書は、 Debian プロジェクトの歴史と目標について述べます。 This document may be freely redistributed or modified in any form provided your changes are clearly documented.

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Changes by Oohara Yuuma Initial version (version 2.0, cvs revision 1.14). 序文 -- Debian プロジェクトとは何か?

は、フリー ソフトウェアだけからなるオペレーティングシステムディストリビューションを 作るために努力する、世界規模のボランティアグループです。このプロジェクトの 今までの主要な成果物は、Debian GNU/Linux ソフトウェアディストリビューション です。これは Linux オペレーティングシステムカーネルと、何千ものパッケージ化済 のアプリケーションを含みます。さまざまなプロセッサタイプに程度こそ違うものの 対応しています。その中には Intel i386 以降、Alpha、ARM、Intel IA-64、 Motorola 68k、MIPS、PA-RISC、PowerPC、Sparc (および UltraSparc)、IBM S/390、 Hitachi SuperH が含まれます。

Debian は (SPI) 設立の動機となりました。SPI はニューヨークを本拠地とする非営利団体 です。Debian およびその他の同様の組織が、オープンハードウェアおよびソフト ウェアを開発するのを援助するために設立されました。とりわけ SPI は、Debian プロジェクトが米国で税控除可能な寄付を受け取れる仕組みを提供しています。

フリーソフトウェアについての詳細は、 と それに関連する Debian フリーソフトウェアガイドラインや、 のページを参照してください。 起源

Debian プロジェクトは、公式には Ian Murdock さんによって に創設されました。当時は、Linux の「ディストリビューション」という概念 自体が新しいものでした。Ian さんは Debian を開かれた、Linux と GNU の 精神に則ったディストリビューションにしようとしました (詳細はこの文書の 付録として提供されている Ian さんの宣言を参照してください)。Debian の 創設にあたり、FSF の GNU プロジェクトによって 1 年間 (1994 年 11 月から 1995 年 11 月まで) 支援を受けました。

Debian は、注意深くそして良心的にまとめられるように、そして同様の配慮で 保守されサポートされるように意図されました。Debian はフリーソフトウェア ハッカーの小さく緊密なグループとして始まり、しだいに開発者および ユーザの大規模でよく組織化されたコミュニティへと成長しました。

Debian は、すべての開発者およびユーザに自らの作業で貢献する方法が 開かれている唯一のディストリビューションです。また Linux の重要な 配布団体としては、唯一営利団体ではありません。Debian はプロジェクトを 組織するための憲章、社会契約そしてポリシー文書を持つ唯一の大プロジェクト です。Debian はまた、アップグレード時のシステムの整合性を保証するために、 パッケージ間の関係についての詳細な依存情報によって「細かくパッケージ化 された」唯一のディストリビューションでもあります。

高品質を達成して維持するために、Debian はソフトウェアをパッケージ化して 配布するための広範囲にわたるポリシーと手続き一式を採用しました。これらの 基準は、Debian の主要な要素すべてをオープンで目に見える形で実装するツール、 自動化、文書によって裏打ちされています。 Debian の発音

Debian の公式の発音は「デビアン (deb ee n)」です。この名前は、Debian の 創設者である Ian Murdock さんとその妻である Debra さんに由来します。 プロジェクトリーダー

Debian には 1993 年の創設以来、何人かのリーダーがいました。

Ian Murdock さんは Debian を 1993 年 8 月に創設し、1996 年 3 月まで リーダーを務めました。

Bruce Perens さんは 1996 年 4 月から 1997 年 12 月まで Debian の リーダーを務めました。

Ian Jackson さんは 1998 年 1 月から 1998 年 12 月まで Debian の リーダーを務めました。

Wichert Akkerman さんは 1999 年 1 月から 2001 年 3 月まで Debian の リーダーを務めました。

Ben Collins さんは 2001 年 4 月から 2002 年 4 月まで Debian の リーダーを務めました。

Bdale Garbee さんは、2002 年 4 月から 2003 年 4 月まで Debian の リーダーを努めました。

Martin Michlmayr さんは 2003 年 3 月に選出され、2005 年 3 月まで リーダーとなっていました。

Branden Robinson さんは 2005 年 4 月に選出され、現在のリーダーです。 Debian リリース

Debian 0.01 から 0.90 まで (1993 年 8 月 - 12 月)

Debian 0.91 (1994 年 1 月): このリリースは、パッケージのインストールおよび 削除ができる単純なパッケージシステムを備えていました。Debian プロジェクトは、 この時点で数十人規模に成長していました。

Debian 0.93R5 (1995 年 3 月): この時点までに、各パッケージに対する責任が 開発者に明確に割りあてられました。そして基本システムのインストール後は、 パッケージマネージャ (dpkg) がパッケージのインストールに 使われました。

Debian 0.93R6 (1995 年 11 月): dselect が登場しました。 a.out バイナリ形式を使う最後の Debian リリースです。約 60 名の 開発者がいました。 最初の master.debian.org サーバが Bdale Garbee さんによって構築され、 0.93R6 リリースと並行して HP によって運用されました。Debian の開発者が 各リリースを構築するための特定のマスターサーバを設置することは、Debian の ミラーネットワークの編成に直結しました。また今日のプロジェクトを管理するのに 使われているポリシーや手続きの多くを開発することにも間接的につながりました。

リリースされなかった Debian 1.0: CD ベンダの Infomagic 社が、Debian の 開発版リリースを前ぶれもなく出荷し、1.0 と称しました。1995 年 12 月 11 日、 Debian と Infomagic 社は共同で当該リリースが誤ったものであると発表し、 Bruce Perens さんは次のように説明しました。すなわち "Debian 1.0" として "InfoMagic Linux Developer's Resource 5-CD Set November 1995" に収録された データは Debian の 1.0 リリースではなく、部分的に ELF 形式となっているだけの 初期開発版であること。そしておそらく起動せず、動作も不安定で、リリースされた Debian システムの品質を表わしてはいないことなどです。未熟な CD 版と実際の Debian リリースとの混乱を避けるため、Debian プロジェクトは次期リリースを "Debian 1.1" と改名しました。CD 上の未熟な Debian 1.0 は不完全であり、 使うべきではありません。

Debian 1.1 Buzz (1996 年 6 月 17 日): コードネームがついた最初の Debian リリースです。これ以降の全リリースと同じく、映画 Toy Story 中のキャラクターに由来します... この場合は Buzz Lightyear です。この頃には、 Bruce Perens さんが Ian Murdock さんからプロジェクトリーダー職を引きついで おり、Bruce さんはこの映画を作った Pixar 社に勤めていました。このリリースは 完全に ELF 形式で、Linux カーネル 2.0 を使っており、474 個のパッケージを 収録していました。

Debian 1.2 Rex (1996 年 12 月 12 日): 映画に登場するプラスチックの 恐竜から名付けられました。120 人の開発者によって保守される 848 個のパッケージ から構成されていました。

Debian 1.3 Bo (1997 年 7 月 5 日): 女羊飼いである Bo Peep から 名付けられました。200 人の開発者によって保守される 974 個のパッケージから 構成されていました。

Debian 2.0 Hamm (1998 年 7 月 24 日): 映画に登場する豚の貯金箱から 名付けられました。複数のアーキテクチャに対応した最初の Debian リリースで、 Motorola 68000 シリーズアーキテクチャ対応が加わりました。Ian Jackson さんを プロジェクトリーダーとし、libc6 への移行を果たしました。そして 400 人以上の 開発者による 1500 個以上のパッケージから構成されていました。

Debian 2.1 Slink (1999 年 3 月 9 日): 映画に登場するこそこそした 犬から名付けられました。さらに 2 種類のアーキテクチャが追加されました。 です。 Wichert Akkerman さんをプロジェクトリーダとし、約 2250 個のパッケージから 構成されていました。公式のセットでは CD 2 枚を必要としました。主要な技術 革新は、新しいパッケージ管理インターフェイスである apt の導入 でした。apt は幅広く真似されましたが、Debian が成長していくことから生じる 問題に取り組み、オープンソースオペレーティングシステム上でのパッケージの 取得とインストールに新しいパラダイムを確立しました。

Debian 2.2 Potato (2000 年 8 月 15 日): 映画に登場する 「Mr Potato Head」から名付けられました。 アーキテクチャへの対応が追加されました。Wichert さんが引き続きプロジェクト リーダを務め、450 人以上の Debian 開発者によって保守される 2600 個以上の ソースパッケージを元にした、3900 個以上のバイナリパッケージから構成されて いました。

Debian 3.0 Woody (2002 年 7 月 19 日): 映画の主人公である カウボーイの「Woody」から名付けられました。さらに多くのアーキテクチャ 対応が追加されており、その内訳は などです。 また、米国内で緩和された輸出制限のために暗号化ソフトウェアを 収録した最初のリリースであり、今では Qt とのライセンス問題が解決している KDE を最初に収録したリリースでもあります。 最近までプロジェクトリーダーを務めた Bdale Garbee さんと 900 人以上の Debian 開発者により、8500 個以上のパッケージが収録され、公式のセットは 7 枚のバイナリ CD で構成されていました。

Debian 3.1 Sarge (2005 年 6 月 6 日): 緑色をしたプラスチック 兵士の軍曹から名付けられました。対応アーキテクチャの新規追加はありませんが、 非公式な AMD64 移植版が同時に発表され、新しく生まれたを 通じて配布されました。新しいインストーラである debian-installer を 備えています。これはハードウェアの自動検出や無人インストールといった機能を 備えたモジュール式のソフトウェアで、30 ヶ国以上の言語に完全に翻訳されて リリースされました。また、完全な ofimatic スイートである OpenOffice.org を 収録した最初のリリースです。プロジェクトリーダーに選出されたばかりの Branden Robinson さんと 1600 人以上の Debian 開発者により、およそ 15400 個 以上のパッケージが収録され、公式のセットは 14 枚のバイナリ CD で構成されて いました。 詳細な歴史 0.x リリース

Debian は、当時 Purdue 大学の学部在校生であった Ian Murdock さんによって 1993 年 8 月に生まれました。Debian は、 (Richard Stallman さんによって創られた団体で、一般公衆利用許諾契約書 (GPL) と関係があります) の GNU Project によって 1 年間 -- 1994 年 11 月 から 1995 年 11 月まで -- 援助を受けました。

Debian 0.01 から Debian 0.90 までは 1993 年 8 月から 12 月までの間に リリースされました。Ian Murdock さんは次のように書いています:

「Debian 0.91 は 1994 年 1 月にリリースされました。原始的なパッケージ システムを備えており、ユーザはパッケージを操ることができましたが、それ 以外のことはほとんど何もできませんでした (依存関係や、それに類する事は まったく存在していませんでした)。その頃には、Debian の作業をしている人が 数十名いましたが、まだ私自身の手でリリースの取りまとめ作業の大半を行なって いました。0.91 は、このようにして行なわれた最後のリリースです。

1994 年の大部分は、他の人たちがより効果的に貢献できるよう Debian プロジェクトを組織するのに、そして dpkg (これについては 主に Ian Jackson さんが責任を負っていました) について作業するのに 費やされました。私が覚えているかぎり、1994 年には公式なリリースは ありませんでしたが、手続きを正しくするための作業中に数回の内部リリースが ありました。

Debian 0.93 Release 5 が 1995 年 3 月に生まれました。これは Debian の 最初の「現代的な」リリースでした: その頃にはさらに多くの開発者がいて (正確に何人なのか覚えていませんが)、それぞれが自分のパッケージを開発し、 基本システムをインストールした後でこれらすべてのパッケージをインストール したり保守したりするのに dpkg が使われていました。

Debian 0.93 Release 6 は 1995 年 11 月に生まれました。これは a.out 形式での 最後のリリースでした。0.93R6 では約 60 人の開発者がパッケージを開発して いました。私の記憶が正確ならば、dselect は 0.93R6 で初めて登場しました」

Ian Murdock さんは、 Debian 0.93R6 は「いつでも私の大好きな Debian リリース だった」とも書いていますが、個人的な偏見がある可能性も認めています。なぜなら、 Murdock さんは Debian 1.0 の試作中である 1996 年 3 月に、プロジェクトで活動 するのをやめているからです。Debian 1.0 は、実際には Debian 1.1 としてリリース されました。これは、CD-ROM 製造者がリリースされていないバージョンを誤って Debian 1.0 と称してしまった後の混乱を避けるためです。この出来事は、ベンダが この種の誤りを避けるのをプロジェクトが助ける方法としての「公式の」CD-ROM イメージという概念につながりました。

1995 年 8 月 (Debian 0.93 Release 5 と Debian 0.93 Release 6 との間) に、 Hartmut Koptein さんが Motorola m68k 系列への Debian の最初の移植を開始 しました。Koptein さんは「とても多くのパッケージは i386 中心主義 (リトル エンディアン、-m486、-O6、libc4 専用) で、自分のマシン (Atari Medusa 68040, 32 MHz) 上に出発点となるパッケージをそろえるのに苦労しました。3 か月後 (1995 年 11 月) には、入手可能な 250 個のパッケージのうち 200 個をアップロード しましたが、すべて libc5 用でした!」と報告しています。後に Koptein さんは、 Vincent Renardias さんや Martin Schulze さんと一緒に PowerPC 系列への 移植をはじめました。

この頃には、Debian プロジェクトは他のアーキテクチャへの数種の と、新しい (Linux では ない) カーネル、すなわち GNU Hurd マイクロカーネルへの移植版を含むまでに 成長していました。

初期のプロジェクトメンバーである Bill Mitchell さんは、Linux カーネルに ついて次のように回想しています。

「...Debian が生まれたときは 0.99r8 と 0.99r15 の間でした。長い間、 私は 20 Mhz の 386 ベースなマシン上でカーネルを 30 分以内に構築することが できました。そして同じ時間で、Debian のインストールを 10MB 未満のディスク スペースに行なうことができました。

... Ian Murdock さん、私、Ian Jackson さん、苗字を思い出せない別の Ian さん、 Dan Quinlan さん、そして名前を思い出せない他の人たちを最初のグループとして 覚えています。Matt Welsh さんは最初のグループの一部か、かなり早い段階で 参加しました (その後、プロジェクトから離れました)。誰かがメーリングリストを 用意し、私たちはうまくやっていました。

思い出せるかぎりでは、私たちは計画を立ててから始めたわけではなく、 計画を高度に組織化された形にまとめてから始めたわけでもありませんでした。 これははっきり思い出せますが、私たちは開始直後から、パッケージのまったく 無作為なコレクションを作るためのソースを集めはじめました。時間がたつにつれ、 ディストリビューションの中核をまとめるために必要なものを集めるのに専念する ようになりました: カーネル、シェル、update、getty、システムを初期化するのに 必要なその他のさまざまなプログラムやサポートファイル、そして中核となる ユーティリティ一式です」 初期の Debian パッケージシステム

プロジェクトのごく初期の段階では、メンバーはソースのみのパッケージを 配布することを考えました。各パッケージは上流のソースコードと Debian 化された パッチファイルから構成され、ユーザはソースを解凍し、パッチを当て、自分で バイナリをコンパイルするわけです。しかし、すぐにバイナリ配布のための何らかの 仕組みが必要だと気がつきました。Ian Murdock さんによって書かれ、 dpkg と呼ばれた最初のパッケージ化ツールは、Debian 特有のバイナリ 形式でパッケージを作成しました。さらに後で展開して、パッケージ内のファイルを インストールするのにも使えました。

Ian Jackson さんがすぐにパッケージ化ツールの開発を引きつぎ、ツール自体の 名前を dpkg-deb に変更し、dpkg-deb の使用を 容易にし今日の Debian システムの 依存競合を提供する ための dpkg と名付けられたフロントエンドプログラムを書きました。 これらのツールによって作られたパッケージには、そのパッケージを作るのに使われた ツールのバージョンを示すヘッダがあり、tar によって作られた アーカイブ (制御情報によってヘッダとは分けられていました) へのオフセットが ファイル内にありました。

およそこの頃、プロジェクトメンバー間で論争がおきました -- dpkg-deb によって作られた Debian 特有のフォーマットは、ar プログラムに よって作られる形式に取って代わられるべきではないかと思った人がいました。 何度かファイル形式が変更され、それに対応してパッケージ化ツールが変更された 後で、ar 形式が採用されました。この変更の鍵となる価値は、あらゆる Unix 似なシステム上で、信頼できない実行形式を走らせる必要なしに Debian パッケージを展開できるようになったということです。言いかえれば、'ar' や 'tar' といったすべての Unix システムに備わっている標準的なツールさえあれば、 Debian バイナリパッケージを展開し中身を調べることができるということです。 1.x リリース

Ian Murdock さんが Debian を離れるとき、Murdock さんは Bruce Perens さんを 次のプロジェクトリーダーに指名しました。Bruce さんが Debian に最初に興味を 抱いたのは、ハム無線オペレータの役に立つ Linux ソフトウェアをすべて含む 「Linux for Hams」という名の Linuxディストリビューション CD を作ろうとして いたときでした。自分のプロジェクトに対応させるには、Debian の中核システムには もっと作業が必要なことが判り、Bruce さんは自分のハム無線ディストリビューションを 延期して、(Ian Murdock さんとともに) 最初の Debian インストールスクリプト一式 (今日の Debian レスキューフロッピーになりました) を組織化することを含む、 基本的な Linux システムと関連するインストールツールの作業にのめりこむように なりました。

Ian Murdock さんは次のように述べています:

「Bruce さんは私の後継者として自然な選択でした。なぜなら彼は 1 年近くもの間 基本システムを開発していて、私が Debian に提供できる時間が急速に減っていくに つれて弛んだ部分を拾いあげていったからです」

Bruce さんは Debian フリーソフトウェアガイドラインと Debian 社会契約を作る ための労力をまとめること、またオープンハードウェアプロジェクトの創設を含む プロジェクトの重要な側面を始めました。Bruce さんがプロジェクトリーダーを 務める間に、Debian は市場シェアと、まじめで、優れた技術を持つ Linux ユーザの ためのプラットフォームとしての名声を獲得しました。

Bruce Perens さんはまた、 を設立する努力の先頭にも立ちました。もともとは Debian プロジェクトに 寄付を受けいれることができる法人格を提供することが狙いでしたが、 その目的は Debian プロジェクト以外のフリーソフトウェアプロジェクトを 支援することも含むように、まもなく拡大されました。

この頃、次の Debian バージョンがリリースされました:

1.1 Buzz 1996 年 6 月リリース (474 個のパッケージ、2.0 カーネル、ELF 形式のみ、dpkg) 1.2 Rex 1996 年 12 月リリース (848 個のパッケージ、120 人の開発者) 1.3 Bo 1997 年 7 月リリース (974 個のパッケージ、200 人の開発者)

1.3 には中間の「ポイント」リリースが何回か行なわれました。その最後は 1.3.1R6 です。

Bruce Perens さんは 2.0 リリースを準備する過程の大部分でプロジェクトを 率いた後、 1998 年 1 月初めに Debian プロジェクトリーダーの職を Ian Jackson さんに引きつぎました。 2.x リリース

Ian Jackson さんは、1998 年初めに Debian プロジェクトのリーダーに就任 ました。その直後、Software in the Public Interest の取締役会に副社長として 迎えられました。財務担当 (Tim Sailer)、社長 (Bruce Perens) そして書記官 (Ian Murdock) が辞任した後、Jackson さんは社長になり、3 人の新メンバーが 選ばれました: Martin Schulze (副社長)、Dale Scheetz (書記官)、そして Nils Lohner (財務担当) です。

Debian 2.0 (Hamm) は、1998 年 7 月に Intel i386 および Motorola 68000 系列アーキテクチャ向けにリリースされました。このリリースは、システム C ライブラリの新バージョン (glibc2、歴史的な理由から libc6 とも呼ばれています) への移行を果たしました。リリース時点では、400 人以上の Debian 開発者によって 保守される 1500 個以上のパッケージがありました。

1999 年 1 月、Wichert Akkerman さんが Ian Jackson さんから Debian プロジェクトリーダ職を引き継ぎました。 は最終段階でいくつかの問題が起きたため、1 週間遅れで 1999 年 3 月 9 日に

Debian 2.1 (Slink) は 2 種類の新しいアーキテクチャに公式対応していました: です。 Debian 2.1 に収録された X-Windows パッケージは以前のリリースから 大きく再編され、また 2.1 は次世代の Debian パッケージ管理インターフェイスであ apt も収録していました。さらに、この Debian リリースは「公式 Debian CD セット」に 2 枚の CD-ROM が必要となる初めての Debian リリースでした; 約 2250 個のパッケージが収録されていました。

1999 年 4 月 21 日、Corel が Debian および KDE グループによって作られた デスクトップ環境を元にした Linux ディストリビューションをリリースする 計画だと発表した時、が Debian と事実上の同盟を結成しました。その春と夏の間、 また別の Debian ベースなディストリビューションである Storm Linux が出現し、 Debian プロジェクトは CD-ROM や公式プロジェクトウェブサイトといった Debian 公認の物品で使うための公式バージョンと、Debian に言及するか由来する物品で 使うための非公式ロゴからなる新しいを採択しました。

新しい、独特な Debian 移植版が始まったのもこの頃です。すなわち への移植版です。 これは Linux 以外のカーネルを使う初めての移植版で、かわりに GNU Mach マイクロカーネルの一種である を 使っています。

Debian 2.2 (Potato) は、2000 年 8 月 15 日に Intel i386、 Motorola 68000 シリーズ、alpha, SUN Sparc, PowerPC そして ARM アーキテクチャ向けにリリースされました。これは PowerPC と ARM への 移植版を含む初めてのリリースです。このリリース時点では、450 人以上の Debian 開発者によって保守される 3900 個以上のバイナリパッケージと、 2600 個以上のソースパッケージがありました。

Debian 2.2 について興味深い事実は、フリーソフトウェアが、あらゆる困難にも かかわらず、現代的なオペレーティングシステムを生み出せることを示したことです。 このことは、関心を抱いたグループによる という記事の中で詳細に研究されました。同記事より引用します:

「[...] 我々は David A. Wheeler 作の sloccount システムを使い、 Debian 2.2 (別名 potato) の有意なコードのソース行数 (SLOC) を測定した。 Debian 2.2 には、(約 8 ヶ月後にリリースされた Red Hat 7.1 のほぼ倍に あたる) 55,000,000 行以上の有意な SLOC があり、(世界中に散らばっている ボランティアの開発者からなる巨大なグループの作業を元にした) Debian の 開発モデルは、少なくとも他の開発手法に匹敵はすることが示されている [...] また、もし Debian が伝統的なプロプライエタリな手法を使って開発されて いたなら、COCOMO モデルで見積った Debian 2.2 の開発コストは 19 億米ドル 近くにもなるであろうことも示されている。さらに我々は、Debian 2.2 で 使われたプログラミング言語 (C が約 70%、C++ が約 10%、Lisp とシェルが おおよそ 5%、その他大勢があとに続く) と、大規模なパッケージ (Mozilla、 Linux カーネル、PM3、XFree86、その他) に関する分析も提供する」 3.x リリース

woody がリリースの準備に取りかかれるようになる前に、ftp-master 上の アーカイブシステムに変更が加えられなければなりませんでした。woody の リリースを準備するために初めて使われる新しい "テスト版" ディストリビューション といった、特別な目的のディストリビューションを可能にするパッケージ プールが、2000 年 12 月半ばに。パッケージプールは既存パッケージ の異なるバージョンを集めたものにすぎず、複数のディストリビューション (現在のところ experimental、不安定版、テスト版、安定版) はそこから パッケージを取得することができ、各々の Packages ファイルに収録されます。

同時にテスト版という新ディストリビューションが導入されました。主に、 不安定版の中で安定していると思われるパッケージが (数週間後に) テスト版に 移されます。テスト版導入の目的は、フリーズ期間の短縮と、プロジェクトが いつでも新リリースの準備を行なえるようにすることです。

この期間に、Debian のモディファイ版を出荷していた企業のいくつかが、 消えてなくなりました。Corel は 2001 年の第 1 四半期に 同社の Linux 部門を売却し、Stormix は 2001 年 1 月 17 日に破産を宣告し、Progeny は 2001 年 10 月 1 日に同社製ディストリビューションの開発を停止しました。

次期リリースへ向けたフリーズは、2001 年 6 月 1 日に始まりました。しかし ながら、プロジェクトが次期リリースを完成させるまでには、それから 1 年強 の時間を要したのです。その理由はや、main アーカイブへの暗号化ソフトウェアの 導入、プロジェクトの根底にあるアーキテクチャの変更 (incoming アーカイブと セキュリティアーキテクチャ) などでした。しかしこの期間に、安定版リリース (Debian 2.2) は 7 度も改訂され、Ben Collins さん (2001 年) と Bdale Garbee さんという 2 人のプロジェクトリーダーが選出されました。さらに、パッケージ化 以外にも Debian 関連の多くの作業は成長を続けました。その中には国際化も含ま れており、(1000 以上のページがある) Debian のウェブサイトは 20 ヶ国以上の 言語に翻訳され、次期リリース版のインストールでは 23 ヶ国語に対応していました。 Debian Junior (子供向け) と Debian Med (医学の学習研究用) という 2 つの 内部プロジェクトも woody のリリース準備期間中に始まり、Debian をその種の 業務に適したものとするための異なる焦点をプロジェクトにもたらしました。

Debian 関連の作業も、開発者が と呼んでいる年に 1 度の会議を企画する妨げにはなりませんでした。最初の会議は、 7 月 2 日から 5 日にかけてボルドー (フランス) で Libre Software Meeting (LSM) と共催で行なわれ、約 40 名の Debian 開発者が集まりました。 2 回目のカンファレンスは 2002 年 7 月 5 日にトロント (カナダ) で開催され、 80 人以上の参加者を集めました。

Debian 3.0 (Woody) は 2002 年 7 月 19 日にリリースされ、 Intel i386、Motorola 68000 系列、 alpha、SUN Sparc、PowerPC、ARM、 HP PA-RISC、IA-64、MIPS、MIPS (DEC)、IBM s/390 といったアーキテクチャに 対応していました。HP PA-RISC、IA-64、MIPS、MIPS (DEC)、IBM s/390 などの 移植版が収録された初めてのリリースです。このリリース時点では、1000 人 以上の Debian 開発者によって保守される約 8500 個のバイナリパッケージが あり、CD-ROM に加えて初めて DVD メディアでも入手できるようになりました。

次期リリースを前に、年に 1 度の会議である Debconf が引き続き 行なわれました。第 4 回は 2003 年 7 月 18 日から 20 日にかけてオスロで 開催され、120 名以上の参加者が集まりました。またそれに先立ち、 7 月 12 日 から 17 日にかけて Debcamp も開催されました。 第 5 回のカンファレンスは 2004 年 5 月 26 日から 6 月 2 日にかけて ブラジルのポルト・アレグレで開催され、26 ヶ国から 160 名以上の参加者を 集めました。

Debian 3.1 (sarge) は、2005 年 6 月 6 日にリリースされ、対応 アーキテクチャは woody と同じでしたが、非公式な AMD64 移植版 が同時にリリースされました。この AMD 64 移植版は、 から利用できるディストリビューション向け プロジェクト運営インフラストラクチャを使用しています。1500 人以上の Debian 開発者によって保守される約 15,000 個のバイナリパッケージがあり ました。

sarge のリリースでは多くの大規模な変更がなされましたが、大半は 同ディストリビューションのフリーズとリリースに要した長きにわたる時間に よるものです。sarge では、従来バージョンにもあったソフトウェアの 73% 以上が更新されただけでなく、9000 個もの大量の新規パッケージが収録され、 サイズ的には従来リリースの倍近くになりました。新規パッケージには、 OpenOffice スイート、Firefox ウェブブラウザ、Thunderbird 電子メール クライアントなどが含まれます。

sarge には Linux カーネルの 2.4 および 2.6 系列、XFree86 4.3、 KDE 3.3 が収録されており、まったく一新されたインストーラを備えて いました。この新インストーラは旧式な起動フロッピー式インストーラを置き 換えるものです。モジュール式の設計で、ハードウェアの自動認識を含むより 進化したインストール (RAID、XFS、LVM にも対応) を提供し、全アーキテクチャ において初心者ユーザでもインストールを容易に行なえます。 また、パッケージ管理用に選ばれるツールは aptitude に切り替わりました。 ソフトウェアがほぼ 40 ヶ国語に翻訳されたように、インストールシステムも 完全な国際化対応を誇っています。インストールマニュアルやリリースノート といった周辺文書もリリースと同時に入手可能となり、それぞれ 10 から 15 ヶ国の言葉に翻訳されたものが用意されています。

sarge には、Debian-Edu/Skolelinux や Debian-Med、Debian-Accessibility といったサブプロジェクトによる成果も取り込まれています。これらのサブ プロジェクトにより、教育用パッケージや医療団体用パッケージ、それに障碍の ある人向けに特別に設計されたパッケージの数は増加の一途をたどっています。

第 6 回の Debconf は、2005 年 7 月 10 日から 17 日にかけて フィンランドのエスポーで開催され、300 人を超える参加者を集めました。 このカンファレンスの模様を映したがオンラインで入手できます。 重要な出来事 2000 年 7 月: Joel Klecker さん逝去

2000 年 7 月 11 日、Espy のニックネームで知られていた Joel Klecker さんが 21 歳でこの世を去りました。#mklinux、Debian のメーリングリストや IRC チャンネルで 'Espy' と交流のあった人々で、このニックネームの影には という病に苦しむ若者がいるのを知っていた者はいませんでした。ほとんどの 人々は Joel さんのことを「Debian の glibc と powerpc 野郎」としてのみ 知っており、Joel さんが闘っていた困難に想いがおよぶ者はいませんでした。 肉体的には病んでいましたが、Joel さんはその偉大なる精神を他の人と共有して いました。

Joel Klecker (別名 Espy) さんに心より哀悼の意を表します。 2000 年 10 月: パッケージプールの実装

James Troup さんは、アーカイブ保守ツールの再実装を行ない、パッケージ プールに移行したと。この日より、ファイルは pools ディレクトリ内の ソースパッケージに対応した名前のディレクトリに保存されるようになりました。 ディストリビューションのディレクトリには、プールへの参照が含まれた Packages ファイルだけが収められています。これにより、テスト版や 不安定版といったディストリビューション間での重複が単純化されました。 このアーカイブは PostgreSQL を使ったデータベース駆動型でもあり、 ロックアップも高速化されています。 2001 年 3 月: Christopher Rutter さん逝去

2001 年 3 月 1 日、Christopher Matthew Rutter (別名 cmr) さんが、 交通事故により 19 歳で命を落としました。Christopher さんは Debian プロジェクトの若く有名なメンバーで、ARM 移植版を手伝っていました。

Chris Rutter さんに心より哀悼の意を表します。 2001 年 3 月: Fabrizio Polacco さん逝去

2001 年 3 月 28 日、Fabrizio Polacco が長い闘病生活の末、この世を 去りました。Debian プロジェクトは、Fabrizio さんによる Debian と フリーソフトウェアでの優れた作業と多大な献身に、敬意を表します。 Fabrizio さんの貢献は忘れられることなく、他の開発者が Fabrizio さんの 業績を引き継ぐべく前進するでしょう。

Fabrizio Polacco さんに心より哀悼の意を表します。 2002 年 7 月: Martin Butterweck さん逝去

2002 年 7 月 21 日、Martin Butterweck (別名 blendi) さんが、白血病と 闘った末、亡くなりました。Martin さんは Debian プロジェクトの若い メンバーで、プロジェクトに加わったばかりでした。

Martin Butterweck さんに心より哀悼の意を表します。 2002 年 11 月: Debian サーバ焼失

2002 年 11 月 20 日の 08:00 CET (中央ヨーロッパ時間) 頃、オランダに あるトゥエンテ大学のネットワークオペレーションセンターで火災が発生 しました。建物は全焼し、灰燼と化しました。消防署はサーバエリアを救う 望みをすっかり諦めてしまいました。とりわけ NOC では satie.debian.org が 運用されており、そこにはセキュリティおよび non-US アーカイブと、新規 メンテナ (nm) および品質保証 (qa) データベースが含まれていました。 Debian はこれらのサービスを klecker という名のホストで再構築しましたが、 最近になって klecker はアメリカからオランダに移されました。 2004 年 5 月: Manuel Estrada Sainz さん、Andrés García さん逝去

5 月 9 日、Manuel Estrada Sainz (ranty) さんと Andrés García (ErConde) さんが、スペインのバレンシアで開催されたフリーソフトウェア カンファレンスからの帰途、痛ましい交通事故で命を落としました。

Manuel Estrada Sainz さんと Andrés García さんに心より哀悼の意を表します。 2005 年 7 月: Jens Schmalzing さん逝去

7 月 30 日、Jens Schmalzing (jensen) さんがドイツのミュンヘンにある 職場で発生した痛ましい事故により亡くなりました。 Jens さんは Debian に参加して各種パッケージのメンテナ、PowerPC 移植版の サポーター、カーネルチームのメンバーとして活躍し、PowerPC カーネル パッケージをバージョン 2.6 に上げる手助けをしました。また、Mac-on-Linux やそのカーネルモジュールのメンテナでもあり、インストーラや地元のミュンヘン での活動を援助したりもしました。

Jens Schmalzing さんに心より哀悼の意を表します。 次は何?

Debian プロジェクトは、不安定版ディストリビューション (コードネーム sid。映画 Toy Story より隣家に住む凶悪で 「情緒不安定」な少年から名付けられました。こんな子は、絶対に世の中に 出すべきではありません) で作業を続けています。Sid は永久に不安定版の コードネームであり、つねに「開発中 (Still In Development)」です。 ほとんどの新規および更新されたパッケージは、このディストリビュー ションにアップロードされます。

テスト版リリースは次期安定版リリースとなることを目指して おり、現在のコードネームは etch です。

etch のために Debian が行なっている作業としては、FSF のフリー ドキュメンテーションライセンス (FDL) に関わるの解決、amd64 の公式アーキテクチャ化、依存関係を元にした init システムの導入、SElinux 対応の導入などがあります。それ以外にも etch ために開発者が行なうであろう作業が数多くありますが、 それらはリリースクリティカルであるとはみなされていません。詳細は を 参照してください。

ethc のその他の目標で、すでに実装済なものは以下の通りです: apt リポジトリへの gpg 認証の導入 (2005 年 6 月済)、Xfree86 を置き換える ために Debian で Xorg を統合 (2005 年 7 月完了)、パッケージ情報に tag 情報を統合 (2005 年 7 月済)。 Debian 宣言

訳注: この文書は、Debian の歴史を文書に残しておくために配布されていることに 注意してください。一般的な概念は、細かな点でいくつか変更されています。

イアン・マードック著、1994 年 1 月 6 日改定 Debian Linux とは何か?

Debian Linux はまったく新しい Linux 配布版です。今までに開発された他の Linux の配布版のように、限定的な個人やグループが開発しているものではなく、 Linux と GNU の精神に則り、オープンに開発されています。Debian は、最終的 に Linux の名に恥じない配布版を作り出すことを第一の目的としています。 Debian は注意深く、また良心的に配布版をまとめており、同様の配慮で保守・ サポートしていく予定です。

Debian は、市場で十分な競争力を持ちえる、商用ではない配布版を作り出す試 みでもあります。ゆくゆくは Free Software Foundation が CD-ROM で Debian を配布するようになるでしょう。また Debian Linux Association は、 印刷されたマニュアルや技術支援などエンドユーザに必要なものと一緒に、フロッ ピーディスクやテープによる配布を提供することになるでしょう。上記のすべて が原価よりもわずかに高い金額で入手できるようになり、そのわずかな原価超過 分を使って、すべてのユーザのためのフリーソフトウェアをさらに開発していく ことになるでしょう。このような配布版は、市場で Linux オペレーティング システムが成功するのに欠かせません。また、十分に先進的な位置にあり、 利益や配当の圧力を受けることなくフリーソフトウェアを広めようとしている組 織によってなされなければなりません。 なぜ Debian を作成するのか?

Linux の未来にとって配布版は不可欠です。配布版を利用すると、ユーザはうま く稼動する Linux システムを組みあげるために必要な、大変な数のツールを探 しだし、ダウンロードし、コンパイルし、インストールしシステムとしてまとめ あげる作業をせずににすむようになります。かわりに、システムを構築する重荷 は配布版作成者が背負います。配布版作成者がした作業は、何千もの他のユーザ と分かちあうことができます。大抵の Linux ユーザは、配布版を通して Linux なるものの最初の感触を得るものです。また、多くのユーザが、このオペ レーティングシステムに慣れてからも、便利さを求めて配布版を使いつづけるで しょう。つまり、配布版は本当に大変重要な役割を担っているのです。

配布版が明らかに重要であるにもかかわらず、開発者達はほとんど注意を払わず にいます。単純な理由によります。配布版の構築は易しくもないし、魅力的でも ないからです。また、配布版のバグをとり、最新の状態に保つために、作成者は 継続的に大変な努力を強いられるからです。0 からシステムを組みあげるのとは 全く別物です。つまり、システムが他人にとってインストールしやすく、多様な ハードウェア構成にもインストールして使用でき、使いでがあると人を唸らせる ソフトウェアを含み、構成要素そのものが改善されたときにアップデートできる ことを保証するということなのです。

多くの配布版がかなりよいシステムとして発表されました。しかし、時が経つに つれて、配布版の保守から次第に関心を失い、二の次になってしまいます。その よい例が、Softlanding Linux System (SLS の略称で有名) でしょう。恐らくもっ ともバグが多く、保守もほとんどなされなかった配布版です。残念ながらこの配 布版は、恐らくもっとも多くの人に使われた物でもありました。まぎれもなく、 これは多くの配布業者からいちばん注目されてしまった配布版だったのです。こ れらの業者は、このオペレーティングシステムが世に広まって行くのに便乗して いることを露呈してしまいました。

これはまったくひどい組み合せです。この手の配布業者から Linux を得る多く の人が、バグが含まれているうえに保守もされない Linux 配布版を受け取って しまうのですから。これだけでは悪行したりないかのように、こういった配布業 者には、自分達の製品の中の動かなかったり極めて動作が不安定な機能について 誤解を与えかねない宣伝をすると言う困った傾向がありました。このような状況 と、購入した人はその製品が宣伝に違わぬできだろうともちろん予想することと、 多くの人がその製品が商用のオペレーティングシステムだと信じている (Linux がフリーであることや、GNU 一般公衆利用許諾に従って配布されている ことに言及しない傾向もありました) かもしれないことを考えあわせてみてくだ さい。なおその上に、これら配布業者は、より多くの雑誌で派手に広告を出して もかまわないだけの金を努力して実際に稼ぎ出しています。単にあまりよくわかっ ていないだけの者が、容認できない行動を助長してしまうという古くから見られ る事例が見てとれます。あきらかに、この状況を改善するために何か手を打つ必 要があります。 Debian はこれらの問題に終止符を打つためにどのように努力するつもりなのか?

Debian の設計過程は、オープンです。システムが最高の品質を持つことと、ユー ザの共同体の要求を反映させることを保証するためです。能力と背景に広がりが ある他人を巻きこむことで、モジュール化して Debian を開発することが可能に なりました。ある分野の専門的知識を持つ者が、その分野を含んでいる Debian の個々の構成要素を開発したり保守したりする機会が与えられるので、 その構成要素の品質は高くなります。他人を巻きこんだことで、改良のための価 値ある助言が開発を通して配布版に含まれて行くことも保証されます。そのため、 どちらかというと作成者の要求や欲求よりもユーザの要求や欲求を元に配布版は 作成されます。一人の個人や小グループでは、直接他人から情報を得なければ、 このような要求や欲求を前もって組み入れることはかなり難しいものです。

Free Software Foundation と Debian Linux Association は物理媒体でも Linux を配布する予定です。これにより Internet や FTP を使わなくてもユー ザに Debian を提供できます。また、システムのすべての利用者が印刷された手 引き書や技術支援などの製品やサービスを広く入手できるようにすることもでき ます。このやりかたなら、Debian はたくさんの個人や組織で使用されるでしょ う。収益や配当を得ることではなく、一級の製品を供給することに焦点をあてて います。そして、製品やサービスから生じた利潤は、対価を支払ってソフトウェ アを得たかどうかにかかわりなく、すべての利用者のためにソフトウェア自体を 改良するために使われるでしょう。

Free Software Foundation は Debian の将来にとって大変重要な役割を果たし ます。Free Software Foundation が Debian を配布するという単純な事実によっ ても、Linux が商用の製品ではなく、今後も決してそうはならないこと、しかし Linux が商業的な競争に決して勝てはしないとは意味しないことを世に知らしめ ることになります。同意しない人は、GNU Emacs と GCC が成功していることを 理由付けしていただきたい。これらは商用の製品ではありませんが、商用である かどうかにかかわらず市場に甚大な影響を与えてきました。

Linux 共同体全体とその未来に迷惑をかけて自分が裕福になるという破壊的な目 標を目指すかわりに、Linux の未来に集中するときがきました。Debian を開発 し配布しても、この宣言で概略を述べた問題への回答とはならないかもしれませ ん。ですが、少なくとも、これらの問題が解決すべき問題として認められるくら いには Debian を通して注意を引きたいと望んでいます。